永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)思ひ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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船橋と野田との間を往復してゐる総武鉄道の支線電車は、米や薩摩芋の買出しをする人より外にはあまり乗るものがないので、誰言ふとなく買出電車と呼ばれてゐる。車は大抵二三輛つながれてゐるが、窓には一枚の硝子もなく出入口の戸には古板が打付けてあるばかりなので、朽廃した貨車のやうにも見られる。板張の腰掛もあたり前の身なりをしてゐては腰のかけやうもないほど壊れたり汚れたりしてゐる。一日にわづか三四回。昼の中しか運転されないので、いつも雑沓する車内の光景は曇つた暗い日など、どれが荷物で、どれが人だか見分けのつかないほど暗淡としてゐる。
この
いづれも今朝方、夜明の一番列車で出て来て、思ひ/\に知合ひの農家をたづね歩き、買出した物を背負つて、昼頃には
「どこだと思つたら、此処か。」と駅の名を見て地理を知つてゐるものは、すた/\改札口から街道へと出て行くと、案内知らぬ連中はぞろ/\その後へついて行く。
「いつだつたか一度来たことがあつたやうだな。」
「この辺の百姓は人の足元を見やがるんで買ひにくい処だ。」
「その時分はお金ばつかりぢや売つてくれねえから、買出しに来るたんび足袋だの手拭だの持つて来てやつたもんだ。」
「もう少し行くとたしか中山へ行くバスがある筈だよ。」
こんな話が重い荷を背負つて歩いて行く人達の口から聞かれる。
十月初、雲一ツなく晴れわたつた小春日和。田圃の稲はもう刈取られて
やがて小半時も歩きつゞけてゐる中、行列は次第々々にとぎれて、歩き馴れたものがどん/\先になり、足の弱いものが三人四人と取り残されて行く。その中には早くも路傍の草の上に重荷をおろして休むものも出て来るので、同じやうな身なりをして同じやうな荷を背負つてゐても、暫くの中に買出電車から降りた人だか、または近処の者だか見分けがつかないやうになつた。
道しるべの古びた石の立つてゐる榎の木蔭。曼珠沙華の真赤に咲いてゐる道のとある曲角に、最前から荷をおろして休んでゐた一人の婆さんがある。婆さんは後から来て休みもせずどん/\先へと歩いて行く人達の後姿をぼんやり見送つてゐたが、すぐには立上らうともしなかつた。
するとまた後から歩いて来た、それは四十あまりのかみさんが、電車の中での知合らしく、婆さんの顔を見て、
「おや、おばさん、大抵ぢやないね。わたしも一休みしやうか。」
「もう何時だらうね。」と婆さんは眩しさうに秋晴の日脚を眺めた。
「追ツつけもうお
「線路づたひに船橋へ行つた方がよかつたかも知れないね。」
「わたしやさつぱり道がわからないんだよ。おばさんは知つてゐなさるのかね。」
「知つてゐるやうな気もするんだよ。知つてゐたつて、たつた一度隣組の人と一緒に来たんだから、どこがどうだか、かいもく分りやアしない。久しい前のことさ。戦争にやなつてゐたが、まだ空襲にやならなかつた時分さ。」
「戦争になつてから、もう十年だね。戦争が終つてもこの様子ぢや、行先はどうなるんだらう。買出しも今日みたやうな目にあふと全く楽ぢやないからね。」
「全くさ。お前さんなんぞがそんな事を言つてたら、わたしなんぞ此年になつちや、どうしていゝか分りやアしない。」
「おばさん、いくつになんなさる。」
「六十八さ。もう駄目だよ。ついこの間まで六貫や七貫平気で
「さうですか。えらいね。わたしなんぞ今からこれぢや先が思ひやられます。」
「その時にや若いものがどうにかしてくれるよ。息子さんや娘さんが黙つちやアゐないから。」
「それなら有り難いが、今時の伜や娘ぢや当にやなりません。道端で愚痴をこぼしてゐても仕様がない。大分休んだから、そろ/\出かけませうか。」
かみさんらしい女がズツクの袋を背負ひ直したので、婆さんも
「おばさん。東京はどこです。本所ですか。」
「箱崎ですよ。」
「箱崎は焼けなかつたさうですね。
「わたしもさうですよ。佐賀町で奉公してゐましたから。着のみ着のまゝですよ。上の橋の側に丸角さんて云ふ瀬戸物の問屋さんがあります。そのお店の
「おや、
「そこいらで仕度をしやうかね。いくら急いだつて歩けるだけしきや歩けないからね。」
おかみさんは道端に茂つてゐる椿の大木の下に
「おばさん、どうした。」
「わたしはまだいゝよ。」
「さう。それアわるかつたね。わたしや食ひしんばうだからね。」
「かまはずにおやんなさい。わたしや休んでるから。」
おかみさんは弁当の包を解き大きな握飯を両手に持ち
「おばさん、どうかしたのかい。気分でもわりいかい。」
一向返事をしないので、耳でも遠いのか、それとも話をするのが面倒なのかも知れないと、おかみさんは一ツ残した握飯をせつせと口の中へ入れてしまひ、沢庵漬をばり/\、指の先を嘗めて拭きながら、見れば婆さんはのめるやうに両膝の間に顔を突込み、大きな鼾をかいてゐるので、年寄と子供ほど
「おばさん。起きなよ。出かけるよ。」と言つたが一向起きる様子もないので、袋を背負ひ直して、もう一度、「ぢや先へ行きますよ。」
その時、婆さんの身体が前の方へのめつたので、おかみさんは初て様子のをかしいのに心づき、
「おばさん。どうしたの。どうしたの。しつかりおし。」
あたりを見まはしても、目のとゞくかぎり続いてゐる葱と大根と
「やつぱりお陀仏だ。」
暫くあたりを見廻してゐたが、忽ち何か思ひついたらしく背負ひ直したズツクの袋をまたもや地におろし、婆さんの包と共に辻堂の縁先まで引摺つて行き、買出して来た薩摩芋と婆さんの白米とを手早く入れかへてしまつた。その頃薩摩芋は一貫目六七十円、白米は一升百七八十円まで騰貴してゐたのである。
おかみさんは古手拭の頬冠を結び直し、
道はやがて低くなつたかと思ふとまた爪先上りになつた其行先を、
この心持は間違つてはゐなかつた。やつとの事、肩で息をしながら坂道を登りきつて、松林に入り小笹と幹との間から行先を見ると、全く別の処へ来たやうにあたりの景色も、木立の様子も、気のせいかすつかり変つてゐる。畠の作物もその種類がちがつてゐる。茅葺の農家のみならず、瓦葺の二階建に硝子戸を引き廻した門構の家も交つてゐる。松林の中は日蔭になつて吹き通ふ風の涼しさ。おかみさんはほつと息をついて
その時自転車に乗つた中年の男が同じ坂道を上つて来て、おかみさんの身近に車を駐めて汗を拭き巻煙草に火をつけた。おかみさんはそれとなく其男の様子を見ると、これから買出しに行くものらしく、車の後には畳んだズツクの袋らしいものを縛りつけてゐる。おかみさんは恐る/\、
「旦那、何かお買物ですか。」と話しかけた。
「駄目だよ。こちとらの手にやおへないよ。」
「売惜しみをしますからね。容易なこツちやありません。」
「全くさね。それにお米ときたらとても駄目だ。いゝなり放題お金の外に何かやらなけれア出しさうもないよ。」
「わたしもさんざ好きなことを言はれたんですよ。それでもやつと少しばかり分けて貰ひました。」
「この掛合は男よりも女の方がいゝやうだね。一升弐百円だつて言ふぢやないか。うそ見たやうだ。」
「東京へ持込めば、旦那、処によるともつと値上りしますよ。御相談次第で、何なら、お譲りしてもいゝんですよ。」
「さうか。それア有りがたい。何升持つてゐる。」
「一斗五升あります。持ち重りがするんでね、すこし風邪は引いてますし、買つておくんなさるなら、願つたり叶つたりです。」
「ぢや、おかみさん。一升百八十円でどうだ。」
「その相場で買つて来たんですから、旦那、五円づゝ儲けさして下さいよ。」
男はおかみさんの袋を両手に持上げて重みを計り、あたりに
取引はすぐに済んだ。
おかみさんは身軽になつた懐中に男の支払つた札束をしまひ、米を載せて走り去る男の後姿を見送りながら松林を出た。林の中には小鳥が囀り草むらには虫が鳴いてゐる。
底本:「ふるさと文学館 第一三巻 【千葉】」ぎょうせい
1994(平成6)年11月15日初版発行
入力:H.YAM
校正:米田
2011年1月29日作成
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