永井荷風『葛飾土産』

葛飾土産
永井荷風

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《》:ルビ
(例)菅野すがの

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(例)日々手籠てかご

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(例)※[#「くさかんむり/宛」、第3水準1-90-92]
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        ○

 菅野すがのに移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅のつぼみほころびるのを待っているのだ。
 去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花の咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの身に取っては全く予想の外にあったが故である。戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋むこうじまを思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。
 わたくしは近年市街と化した多摩川たまがわ沿岸、また荒川あらかわ沿岸の光景から推察して、江戸川えどがわ東岸の郊外も、大方樹木は乱伐せられ、草は踏みにじられ、田や畠も兵器の製造場になったものとばかり思込んでいたのであるが、来て見ると、まだそれほどには荒らされていない処が残っていた。心して尋ね歩めばむかしのままなる日本固有の風景に接して、伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない。
 わたくしは日々手籠てかごをさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道あぜみちを歩み、枯枝や松毬まつかさを拾い集め、持ち帰って飯をかしたきぎの代りにしている。また野菜を買いに八幡やわたから鬼越おにごえ中山なかやまの辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥しもごえを運ぶ農家の車に行き逢うほか、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣いけがきや竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中にはわたくしのかつて見たことのない雑草も少くはない。山牛蒡やまごぼうの葉と茎とその実との霜に染められた臙脂えんじの色のうつくしさは、去年の秋わたくしの初めて見たものであった。野生の萩や撫子なでしこの花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺かやぶきの屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米をぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷びわの如き果樹が立っている。
 去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端のきばに梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのである。東京の人が梅見という事を忘れなかったむかしの世のさまがつくづく思い返された故である。それは今にして思返すと全く遠い昔の事である。明治の末、わたくしが西洋から帰って来た頃には梅花は既に世人の興をくべき力がなかった。向嶋むこうじま百花園ひゃっかえんなどへ行っても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈つのはず池上いけがみ小向井こむかいなどにあった梅園も皆とざされ、その中には瓦斯ガスタンクになっていた処もあった。樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかった。梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われていたのである。
 わたくしが梅花を見てよろこびを感ずる心持は殆ど江戸の俳句に言尽されている。今更ここに其角きかく嵐雪らんせつの句を列記して説明するにも及ばぬであろう。わたくしは梅花を見る時、林をなしたひろい眺めよりも、むしろ農家の井戸や垣のほとりに、他の樹木の間から一株二株はなればなれに立っている樹の姿と、その花の点々として咲きかけたのを喜ぶのである。いわゆる竹外の一枝斜なる姿を喜び見るのである。
 梅花を見て興を催すには漢文と和歌俳句との素養が必要になって来る。されば現代の人が過去の東洋文学をかえりみぬようになるに従って梅花の閑却されるのは当然の事であろう。ただに梅花のみではない。現代の日本人は祖国に生ずる草木の凡てに対して、過去の日本人の持っていたほどの興味を持たないようになった。わたくしは政治もしくは商工業に従事する人の趣味については暫くいて言わぬであろう。画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖国の花鳥草木に対して著しく無関心になって来たことを、むしろ不思議となしている。文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正のこうから始った事である。偶然の現象であるのかも知れないが、考え方によっては全然関係がないとも言われまい。
 戦争中にも銀座千疋屋せんびきやの店頭には時節に従って花のある盆栽が並べられた。また年末には夜店に梅の鉢物が並べられ、市中諸処の縁日にも必ず植木屋が出ていた。これを見て或人はわたしの説をばくして、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはないと言うかも知れない。しかしわたくしの見る処では、これは前の時代の風習の残影に過ぎない。人の家のとこ画幅がふくの掛けられているのを見て、直にその家の主人を以て美術の鑑賞家となす事の当らざるに似ているであろう。世にはまた色紙しきし短冊たんざくのたぐいに揮毫きごうを求める好事家があるが、その人たちがことごとく書画を愛するものとは言われない。
 祖国の自然がその国に生れた人たちから飽かれるようになるのも、これを要するに、運命の為すところだと見ねばなるまい。わたくしは何物にも命数があると思っている。植物の中で最も樹齢の長いものと思われている松柏さえ時が来ればおのずと枯死して行くではないか。一国の伝統にして戦争によって終局を告げたものも、仮名づかいの変化の如きを初めとして、その例を挙げたら二、三に止まらぬであろう。
[#地から2字上げ]昭和廿二年二月

        ○

 市川の町を歩いている時、わたくしは折々四、五十年前、電車も自動車も走っていなかったころの東京の町を思出すことがある。
 杉、柾木まさきまきなどを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早くいわしを売りあるく男の頓狂な声。さてはまた長雨の晴れた昼すぎにきく竿竹売さおだけうりや、蝙蝠傘こうもりがさつくろい直しの声。それらはいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手の町で聞き馴れ、そしていつか年と共に忘れ果てた懐しいちまたの声である。
 夏から秋へかけての日盛ひざかりに、千葉県道に面したあきなみせでは砂ほこりを防ぐために、長い柄杓ひしゃくどぶの水を汲んでいていることがあるが、これもまたわたくしには、溝の多かった下谷したや浅草あさくさの町や横町よこちょうを、風の吹く日、人力車に乗って通り過ぎたころのむかしを思い出させずには置かない。
 東京下町の溝の中には川のながれと同じように、長く都人に記憶されていた名高いものも少くはなかった。菊屋橋きくやばしのかけられた新堀しんぼりの流れ。三枚橋さんまいばしのかけられていた御徒町おかちまち忍川しのぶがわの如き溝渠である。
 そのころ人の家をたずね歩むに当って、番地よりも橋の名をたよりにして行く方が、その処を知るにはかえって迷うおそれがなかった。しかしこれら市中の溝渠は大かた大正十二年癸亥きがいの震災前後、街衢がいくの改造されるにつれて、あるいは埋められ、あるいは暗渠となって地中に隠され、旧観を存するものは殆どないようになった。
 そのころ、わたくしはわが日誌にむかしあって後に埋められた市中溝川の所在を心覚こころおぼえしるして置いたことがある。すなわち次の如くである。
 京橋区内では○木挽町こびきちょう一、二丁目へん浅利河岸あさりがし(震災前埋立)○新富町しんとみちょう旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町あかしちょう旧居留地の中央を流れた溝渠。むかし見当橋のかかっていた川○八丁堀はっちょうぼり地蔵橋かかりし川、その他。
 日本橋区内では○本柳橋もとやなぎばしかかりし薬研堀やげんぼりの溝渠(震災前埋立)
 浅草下谷区内では○浅草新堀○御徒町忍川○天王橋かかりし鳥越川とりごえがわ白鬚橋しらひげばし瓦斯タンクの辺橋場のおもい川○千束町せんぞくまち小松橋かかりし溝○吉原遊郭周囲の鉄漿溝おはぐろどぶ○下谷二長町にちょうまち竹町辺の溝○三味線堀。その他なお多し。
 牛込区内では○市ヶ谷冨久町とみひさちょう饅頭谷まんじゅうだにより市ヶ谷八幡鳥居前を流れて外濠そとぼりに入る溝川○弁天町べんてんちょうの細流○早稲田鶴巻町つるまきちょう山吹町やまぶきちょう辺を流れて江戸川に入る細流。
 四谷新宿辺では○御苑外ぎょえんそとの上水堀○千駄ヶ谷水車ありし細流。
 小石川区内では○植物園門前の小石川○柳町やなぎちょうさす谷町やちょう辺の溝○竹島町たけしまちょうの人参川○音羽おとわ久世山くぜやま崖下の細流○音羽町西側雑司ぞうしより関口台町せきぐちだいまち下を流れし弦巻川つるまきがわ
 芝区内では○愛宕下あたごしたの桜川また宇田川○芝橋かかりし入堀(これは震災前埋立)
 赤坂区内では○溜池ためいけ桐畠の溝渠。
 本所深川区内では○御蔵橋おくらばしかかりし埋堀○南北の割下水○黒江くろえ町黒江橋ありし辺の溝渠。その他。
 砂町すなまちでは○元〆川○境川おんぼう堀。その他。
 こんな事を識すのも今は落した財布の銭を数えるにも似ているであろう。

        ○

 東京の郊外が田園の風趣を失い、市中に劣らぬ繁華熱閙ねっとうの巷となったのはおもに大正十二年震災あってより後である。
 田園調布の町も尾久おぐ三河島みかわしまあたりの町々も震災のころにはまだすすきの穂に西風のそよいでいた野原であった。
 雑司ヶ谷、目黒、千駄ヶ谷あたりの開けたのは田園調布あたりよりもずっと時を早くしていた。そのころそのあたりにしきりと新築せられる洋室付の貸家の庭に、垣よりも高くのびたコスモスが見事に花をさかせているのと、下町の女のあまり着ないメレンス染の着物が、秋晴れの日向ひなたに干されたりしているのを見る時、何となく目あたらしく、いかにも郊外の生活らしい心持をさせたことを、わたくしは記憶している。
 与謝野晶子よさのあきこさんがまだおおとり晶子といわれた頃、「やははだの熱き血潮にふれもみで」の一首に世を驚したのは千駄ヶ谷の新居ではなかった国木田独歩くにきだどっぽがその名篇『武蔵野』を著したのもたしか千駄ヶ谷に卜居ぼくきょされた頃であったろう。共に明治三十年代のことで、人はまだ日露戦争を知らなかった時である。
 コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か、わたくしはその年代をつまびらかにしない。しかし概して西洋種の草花の一般によろこび植えられるようになったのは、大正改元前後のころからではなかろうか。
 わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草さくらそうくらいにとどまって、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤あらかわづつみの南岸浮間うきまはらには野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋わらじばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷ろうこうとなり、桜草のことを言う人もない。
 ダリヤは天竺牡丹てんじくぼたんといわれ稀に見るものとして珍重された。それはコスモスの流行よりも年代はずっと早かったであろう。チュリップ、ヒヤシンス、ベコニヤなどもダリヤと同じく珍奇なる異草として尊まれていたが、いつか普及せられてコスモスの流行はやるころには、西河岸の地蔵尊、虎ノ門の金毘羅こんぴらなどの縁日えんにちにも、アセチリンの悪臭鼻を突く燈火の下に陳列されるようになっていた。
 わたくしは西洋だねの草花の流行に関して、それは自然主義文学の勃興、ついで婦人雑誌の流行、女優の輩出などと、ほぼ年代を同じくしていたように考えている。入谷いりやの朝顔と団子坂だんござかの菊人形の衰微は硯友社けんゆうしゃ文学とこれまたその運命を同じくしている。向島の百花園に紫※[#「くさかんむり/宛」、第3水準1-90-92]しおん女郎花おみなえしに交って西洋種の草花の植えられたのを、そのころに見て嘆く人のはなしを聞いたことがあった。
 銀座通の繁華が京橋際から年と共に新橋辺に移り、遂に市中第一の賑いを誇るようになったのも明治の末、大正の初からである。ブラヂルコーヒーが普及せられて、一般の人の口に味われるようになったのも、丁度その時分からで、南鍋町みなみなべちょうと浅草公園とにパウリスタという珈琲店コーヒーてんが開かれた。それは明治天皇崩御ほうぎよの年の秋であった。

        ○

 談話がゆくりなく目に見る花よりも口にする団子の方に転じた。東京の都人が食後に果物を食うことを覚え初めたのも、銀座の繁華と時を同じくしている。これは洋食の料理から、おのずと日本食の膳にも移って来たものであろう。それ故大正改元のころには、山谷さんや八百善やおぜん、吉原の兼子、下谷したやの伊予紋、ほしおか茶寮さりょうなどいう会席茶屋では食後に果物を出すようなことはなかったが、いつともなく古式を棄てるようになった。
 わたくしの若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎りんごもバナナも桜の実も、口にしたことが稀であった。むかしから東京の人が口にし馴れた果物は、西瓜すいか真桑瓜まくわうり、柿、桃、葡萄、梨、粟、枇杷びわ蜜柑みかんのたぐいに過ぎなかった。梨に二十世紀、桃に白桃水蜜桃ができ、葡萄や覆盆子いちごに見事な改良種の現れたのは、いずれも大正以後であろう。
 大正の時代は今日よりして当時を回顧すれば、日本の生活の最豊富な時であった。一時の盛大はやがて風雲の気をかもし、遂に今日の衰亡を招ぐに終った。われわれが再びバナナやパインアップルを貪り食うことのできるのはいつの日であろう。この次の時代をつくるわれわれの子孫といえども、果してよく前の世のわれわれのように廉価を以て山海の美味に飽くことができるだろうか。
[#地から2字上げ]昭和廿二年十月

        ○

 松杉椿のような冬樹ふゆきが林をなした小高い岡のふもとに、葛飾かつしかという京成電車の静な停車場がある。
 線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径こみちを残して、農家の生垣が柾木まさきまき、また木槿むくげ南天燭なんてんの茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥のさえずる声が耳立つかと思われる。
 生垣の間に荷車の通れる道がある。
 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた寂しい寺や荒れ果てた神社があるが、数町にして道は二つに分れ、その一筋は岡の方へと昇るやや急な坂になり、他の一筋は低く水田の間を向に見える岡の方へと延長している。
 この道の分れぎわに榎の大木が立っていて、その下に一片の石碑と、周囲に石をたたんだ一坪ほどの池がある。
 今年の春、田家でんかにさく梅花を探りに歩いていた時である。わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないような気がしたので、立寄って見ると、正面に「葛羅之井かつらのい。」側面に「文化九年壬申三月建、本郷村中世話人惣四郎」とろくされていた。そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝おおたなんぼの筆らしく思われたので、かたわらの溜り水にハンケチをぬらし、石の面に選挙侯補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案のじょう蜀山人しょくさんじんの筆で葛羅の井戸のいわれがしるされていた。
 これは後に知ったことであるが、仮名垣魯文かながきろぶんの門人であった野崎左文のざきさぶんの地理書にくわしく記載されているとおり、下総しもうさの国栗原郡勝鹿かつしかというところに瓊杵神ににぎのかみという神がまつられ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天かんてんにもれたことがないというのである。
 石をめぐらした一坪ほどの水溜りは碑文に言う醴泉れいせんの湧き出た井の名残であろう。しかし今見れば散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜りに過ぎない。
 碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここにきたって親しく井の水をんだか否か。文献のちょうすべきものがあれば好事家こうずかの幸である。
 わたくしは戦後人心の赴くところを観るにつけ、たまたま田舎の路傍に残された断碑を見て、その行末を思い、ここにこれをしるした。時維ときにこれ昭和廿二年歳次丁亥ていがい臘月ろうげつの某日である。

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 千葉街道の道端に茂っている八幡不知やわたしらずやぶの前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条ひとすじの細流に出会う。
 両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川ままがわの流の末だということだけは知ることができた。
 真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈てこなという村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。
 市川の町に来てから折々の散歩に、わたくしははからず江戸川の水が国府台こうのだいの麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。
 これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処どこということなく、道を歩いてふと小流こながれに会えば、何のわけとも知らずその源委げんいがたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこのへきはまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百までおどるとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。
 かつて東京にいたころ、市内の細流溝渠について知るところの多かったのも、けだしこの習癖のためであろう。これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨すがもに探り、関口の滝を見ては遠きをいとわず中野を過ぎてかしらの池に至り、また王子音無川おうじおとなしがわの流の末をたずねては、根岸の藍染川あいそめがわから浅草の山谷堀さんやぼりまで歩みつづけたような事がある。しかしそれはいずれも三十前後の時のたわむれで、当時の記憶も今は覚束おぼつかなく、ここに識す地名にも誤謬がなければ幸である。
 真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤すみだづつみに見た桜と同じくらいかと思われる。空襲の頻々たるころ、この老桜がわずかわざわいを免れて、年々香雲靉靆あいたいとして戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打れざるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世はひとこぞって米の価を議するにいそがしく、花を保護するいとまがないであろう。
 真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠とがつづきはじめる。丘阜きゅうふに接するあたりの村は諏訪田すわだとよばれ、町に近いあたりは菅野すがのと呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨こうほね、秋にはあしの花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものもくわか草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭をかぶった女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲のかれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。
 一時ひとしきり、わたくしの仮寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。
 真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりのせきさえぎられて、雨の降って来るような水音を立てている。なお行くことしばらくにして川の流れは京成電車の線路をよこぎるに際して、橋と松林と小商こあきないする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている。
 或日試みた千葉街道の散策に、わたくしは偶然この水の流れに出会ってから、生来好奇の癖はまたしてもその行衛ゆくえとその沿岸の風景とをきわめずにはいられないような心持にならせた。
 流は千葉街道からしきりと東南の方へ迂回して、両岸とも貧しげな人家の散在した陋巷ろうこうを過ぎ、省線電車の線路をよこぎると、ここに再び田と畠との間を流れる美しい野川になる。しかしその眺望のひろびろしたことは、わたくしが朝夕その仮寓から見る諏訪田の景色のようなものではない。
 水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲ぼうちょうおそれなからしむる放水路の関門であることは、そのそばまで行って見なくとも、その形がその事を知らせている。
 水の流れは水田の唯中を殆ど省線の鉄路と方向を同じくして東へ東へと流れて行く。遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道あぜみちをその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。
 これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突のちらばらに立っている間々を、省線の列車が走り、松林と人家とは後方の空を限る高地と共に、船橋の方へとつづいている。高地の下の人家の或処は立て込んだり、或処は少しくまばらになったりしているのは、一ツの町が村になったり再び町になったりすることを知らしているのである。初に見た時、やや遠く雲をついて高地の空にそびえていた無線電信の鉄柱が、わたくしの歩みを進めるにつれて次第に近く望まれるようになった。玩具のように小さく見える列車が突然とまって、また走り出すのと、そのあたりの人家の殊に込み合っている様子とで、それは中山の駅であろうと思われた。
 水はこの辺に至って、また少しく曲りやや南らしい方向へと流れて行く。今まで掛けてある橋は三、四カ処もあったらしいが、いずれも古びた木橋で、中には板一枚しかわたしてないものもあった。しかるにわたくしは突然セメントで築き上げた、しかも欄干らんかんさえついているものに行き会ったので、驚いて見れば「やなぎばし」としてあった。真直に中山の町の方から来る道路があって、わだちの跡が深く掘り込まれている。子供の手を引いて歩いてくる女連の着物の色と、子供の持っている赤い風船の色とが、冬枯した荒凉たる水田みずたの中に著しく目立って綺麗に見える。小春こはる日和ひよりをよろこび法華経寺へお参りした人たちが柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと帰って行くのであろう。
 流の幅は大分ひろく、田舟たぶねの朽ちたまま浮んでいるのも二、三艘に及んでいる。一際ひときわこんもりと生茂おいしげった林の間から寺の大きな屋根と納骨堂らしい二層の塔が聳えている。水のながれはやがて西東に走る一条の道路に出てここに再び橋がかけられている。道の両側には生垣をめぐらし倉庫をかまえた農家が立並び、堤には桟橋が掛けられ、小舟が幾艘も繋がれている。
 遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがっているが、目を遮るものは空のはずれを行く雲より外には何物もない。卑湿の地もほどなく尽きて泥海になるらしいことが、幹を斜にした樹木の姿や、吹きつける風の肌ざわりで推察せられる。
 たどりたどって尋ねて来た真間川の果ももう遠くはあるまい。
 ※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]にわとりの歩いている村の道を、二、三人物食いながら来かかる子供を見て、わたくしは土地の名と海の遠さとを尋ねた。
 海まではまだなかなかあるそうである。そしてここは原木ばらきといい、あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。
 寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。
 わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐ふがいなくきびすをかえした。
[#地から2字上げ]昭和廿二年十二月



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2011年4月2日修正
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