永井荷風
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《》:ルビ
(例)
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(例)御一泊
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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\
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大方帳場の柱に掛けてある古時計であらう。間の抜けた力のない音でボンボンと鳴り出すのを聞きつけ、友田は寐てゐる夜具の中から手を伸して枕元の懐中時計を引寄せながら、
「民子さん。あれア九時でせう。まだいゝんですか。」と抱寐した女の横顔に頤を載せた。
「あら。もうそんな時間。」と言つたが、女も男と同じやうに着るものもなく寐てゐたので、夜具の上に膝を揃へて起き直りながら、
「
「かまふもんですか。廊下にや誰もゐやしません。」
「でも、あなた。話声がするわ。お客さまぢや無いか知ら。」
「われ/\と同じやうな連中でせう。」
「憚りも二階でしたわね。」
「洗面所の突当りでせう。構ふもんですか。」
「でも、これぢやアあんまりですわ。」
女は夜具の
男は枕元の銀時計を見直しながら、夜具の上に起直つて手近にぬぎ捨てゝあるメリヤスとワイシヤツを引寄せる。
洗面所の水の音が止つて、男がワイシヤツの片袖に手を入れかけた時、
「時間の立つのは全く早いですね。」
「ほんとうねえ。会社を出た時は五時打つたばかりでしたわね。」
「誰もまだ気がつきはしないでせうな。知れるとまづいですからね。」
「注意に注意してるから大丈夫だと思ひますわ。誰しも若い中は仕方がありませんわ。活きてゐるんですもの。ねえ、あなた。」と女は両足を投出し丸めた
男は何も言はず、片足を立てゝ靴足袋をはく女の様子を眺めながら、静にシヤツの襟のネクタイを結び初めた。
二人は西銀座裏の堀端。土端の近くに立つてゐる建物の三階の一室を借りて営業してゐる或商事会社の雇用人で。男の方は名を友田信三。年は三十四五、社長の親戚に当るばかりか、社員の中でも古顔の一人であるが、女の方は半年ほど前に新聞の広告を見て志願書を出して雇つて貰つたばかり。年は二十四五。戦災前長年人形町の表通に雑貨店を出してゐた商家の娘で、災後の現在は新小岩へ移転し女学校を出た後、日本橋通の或商店に雇はれ売子になつてゐた事があつた。人並よりは小柄な身に簡易な洋装をした姿。年よりはずツと若く見えるが上に町育ちの言葉使ひやら愛嬌やら、どこか男の目を牽く艶かしさが見えるので、初めて見た其時から友田は何とかしてやりたいやうな気になつてゐた。
女は会社がひけると毎日歩いて土橋を渡り新橋の駅から国鉄の電車に乗り、秋葉原で総武線に乗り替へて行く道順をも、友田は人知れず其後をつけ、或日にはその住んでゐる親の店の近くまで行つたこともあつた。其間にも折があつたら手でも握つてやらうと思ひながら空しく一ト月あまりを過した或日曜日の午後である。友田は偶然浅草公園映画町の人中で、これも唯一人歩いてゐる彼女に出会つた。
二人は互にアラと言つたなり驚いて其場に
「まアどうも、すみません。」とこの場合厭とも言へず、女は切符を受取り男と並んで内へ這入ると、天気の好い日曜日の事で、場内は大入満員の好景気。出入の戸口から場内左右の壁際まで、席のあくのを待つ看客が押合ふやうに立込んでゐるため、正面舞台の映画は人の頭に遮られて能くは見えない。
「どうです。見えますか。もつと此方へお寄んなさい。」と友田は女の手を取らぬばかり寄り添つて人中へ割込むと、絶えず
映画館を出ると短い秋の日はもう夕方近くになり、あたりの電灯は
「どうです。お茶でも飲みませんか。」
「えゝ、有難うございますけど、今日はだまつて出て参りましたから。」
「さうですか。それぢやまた此の次の日曜日に。約束して下さい。いゝでせう。」
「はい。」
「お宅は新小岩でしたね。」
「はい。」
「それぢや国鉄でお帰りですね。」
「はい。」
「浅草橋でお乗りなら、私はお茶の水の方ですから、そこまでお送りしませう。」
あくる日会社で顔を見合したが、友田は黙つて知らぬ顔をしてゐると、女の方もそれと察したらしく何知らぬ風をしてゐる中、いつか会社のひける時間になつた。
友田は大急ぎで
「民子さん。」と声をかけた。
「あら、友田さん。」と女は驚いて其場に立止つた。
「会社ぢや話ができませんからね、僕こゝでお待ちしてゐたんです。是非きいて頂きたい話があるのです。民子さん。きいて下さい。」
「どんな事でございます。」と民子は眼を見張つたが、あたりの人目を憚る様子で、立つたまゝ静に友田の顔を見返した。
友田は一歩進み寄り、わざとらしく声をひそめて、「僕あなたが初めて会社へお出でになつた時から、一目見て好きになつたのです。驚いちやいけませんよ。僕どうしても思ひ切れないんです。僕の言ふこと聞いて下さい。」
言ひながらいきなり友田はハンドバックを持つてゐる民子の手を握つた。
あたりには電車の来るのを待つ人達が並んで立つてゐる。一人の者もあれば三四人連立つて話をしたり笑つたりしてゐるものもあるので、それ等の人目を避けるためか、女は握られた手を振放さうともせず、その儘だまつて其の場に立つてゐた。
電車が来て
「初めてお目にかゝつた其時からです。僕はあなたが好きで好きでたまらなくなつてしまつたのです。きのふ浅草でお目にかゝつた時は夢ぢやないかと思ひました。僕どうしても思つてる事をすつかりあなたに打明けてしまはなければ居られなくなつたのです。民子さん、御迷惑でも聞いて下さい。」と先へ腰をおろし引き据るやうに其傍に女を坐らせた。女は何とも言はず手を握られたまゝきちんと腰をかけ揃へた足先に視線を移した。
「では明日。またお目にかゝります。」
「では。左様なら。気をつけておいでなさい。」
友田は後から静に立上り、構内の時計と電車の動き出すのを眺めながら、自分の乗るべき車の来る向側の
次の日は午後から小雨が降り出したのみならず、友田は毎日同じやうな行動を取るのもどうかと考へ、会社を出ると一人ぶら/\銀座を歩き其辺のバーで一杯飲んで空しく貸間に帰つたが、眠られない
友田は会社の廊下で、女の出て来るのを待ち受け、
「あしたは浅草で会ふ日です。僕は浅草橋の
「二時。」と言つたなり、女は事務の書類を手にして
その日友田は会社がひけてから、
さうした横町には幾軒も宿屋が目につく。いづれも表の店口に
「旦那。いかゞです。面白い処へ御案内しませう。旦那。」と話をしかけた。
「うむ。君。
「へえ、旦那。何でございます。」
「宿屋でなくッて、その、何だよ。食もの屋か何かで、具合のいゝ
「へえ。」
「這入りいゝ家で……二人きりで話のできるやうな、静な家を知らないかね。」
「旦那。わかりました。御婦人とお二人づれ……。」
「さうだよ。今夜ぢやない。
「旦那。承知しました。お連込ならお誂向きと云ふ処が御在ます。」
「さうか。」
「お
「さうか。」
「三畳敷のお座敷が二間か三間ございますが、二階へお上りになると、床の間つきで、蒲団ぐらい敷かれるお座敷があります。」
「うむ。さうか。此処から遠いかね。」
「直ぐそこで御在ます。よろしければ御案内いたしませう。」
「何といふ家だか、名前も教へてくれないか。」と友田はそれとなくあたりに気を配りながら、百円札一枚を外套のかくしから取出して男に手渡しをした。
「旦那。すみません。表の店口は硝子戸を明けて這入るんで御在ますが、裏へ廻ると路次ですから誰にも知れッこは御在ません。」と小声に説明しながら、其男は先に立つて大通を向側へ越し、並んでゐる商店の間の小道に案内した。
都電で雷門まで行き、此の前とは
「あら。あなた。」と女は驚いて立上らうとするのを、友田はかまはず力一ぱい抱きすくめて、
「許して下さい。いゝでせう。今日は。今日は。」と言ひながら身悶えする女を其場に押倒した。
かうなつてはどうする事もできないと見え、女は乱れた裾前もそのまゝ、
「あなた、乱暴ね。ひどいわ、ひどいわ。」それも小声で言ふばかり。
暫くして、女は肩から落ちさうになつた羽織の紐を結び直さうとした時、わざとらしく梯子段に足音をさせて、女中代りの小娘が親子丼を二ツ運んで来て、茶ぶ台の上に置き、「お茶只今。」と言ひながら下りて行つた。
「民子さん。僕今日は気が
小娘が茶を入れた小形の湯呑を二ツ持つて来る。
「静だけど下にはお客様があるのかね。」
「いゝえ。内のお客様は
「さうかね。」
「どうぞ御ゆるりなさつて。御用が御在ましたら、どうぞお手を。」
「ぢやもう暫く御邪魔するよ。」
「はい。どうぞ。」と小娘は何事も心得て居るらしく、わざとお客の顔を見ぬやうにして下りて行つた。
友田が手を鳴して再び小娘を呼び上げ、席料と食べ物の代価を払つたのは、かれこれ一時間近くも過ぎてからであつた。
この日を手始めに、友田は日曜日毎に民子をつれて来るやうになつたが、四五回目で丁度其の月も変る頃からぱつたり姿を見せぬやうになつた。
友田は突然会社の横浜支店に転任を命ぜられ、本郷の貸間を引揚げて其町へ移転した。
浅草で逢ひつゞけてゐる中から、彼は早くも民子には倦きてゐた。同じ処で同じ女に逢ふのが、つまらなくて成らなくなつたものゝ今更さうとも云へないので、二三度処を変へてパン/\の出入する烏森あたりの旅館へ連込んだ事もあつたが、矢張同じ事。女の言ふこと、為すことはきまり切つてしまつて、初の中催したやうな刺戟も昂奮をも感じさせないので、遂には連込の席料を払ふことさへ次第に惜しくなるばかり。何とか口実をつけて逃げたいと思ふ矢先、突然横浜転任の命令を受けたのは、彼の身に取つては全く天の
月日は忽ち半年あまりを過ぎた。或日友田は東京にゐた時分の昔を思出し、同じやうな日曜の休日、久しぶりに銀座通や浅草公園を歩いて見やうと、横浜の駅から電車に乗ると、偶然車の中で以前机を並べて仕事をしてゐた同僚の一人に出会つた。
「やア、君。」
「やア、友田君。」
「今日は親類の者に頼まれて税関まで出て来たんですが、休日で駄目でした。」
「さうでしたか。東京の本店では皆さんお変りもありませんか。」
「みんな無事にやつて居ます。変りはありません。」
「女の人達も先の通りですか。」
「さう云へばあの人……君の机の筋向にゐた貝原民子さん。」
「うむ。民子さん。小柄の人でしたね。どうかしましたか。」
「近々結婚するさうです。」
「あの人が結婚をする……」
「会社へ来る前働いてゐた商店の人と、急に話がきまつて結婚するんださうです。」
「さうですか。さうですか。それは目出たい話ですな。」
友田は載せた雑誌の落るのもかまはず片手で其膝を叩き、さも可笑しさうに声まで出して大きく笑つた。[#地から1字上げ]昭和卅一年三月
底本:「日本の名随筆 別巻83 男心」作品社
1998(平成10)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一一巻」岩波書店
1964(昭和39)年11月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月5日作成
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