永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)
:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)銀座
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ない/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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新太郎はもみぢといふ銀座裏の小料理屋に雇はれて料理方の見習をしてゐる中、徴兵にとられ二年たつて歸つて來た。然し統制後の世の中一帶、銀座
仕込にする物が足りないため、東京中の飮食店で毎日滯りなく客を迎へることのできる家は一軒もない。もみぢでは表向休業といふ札を下げ、ない/\で顏馴染のお客とその紹介で來る人だけを迎へることにしてゐたが、それでも十日に一遍は休みにして、肴や野菜、酒や炭薪の買あさりをしなければならない。このまゝ戰爭が長びけば一度の休みは二度となり三度となり、やがて商賣はできなくなるものと、おかみさんを初めお客樣も
新太郎は近處の樣子や世間の噂から、ぐづ/\してゐると、もう一度召集されて戰地へ送られるか、さうでなければ工場の職工にされるだらう。幸に此のまゝこゝに働いてゐて、一人前の料理番になつたところで、日頃思つてゐたやうに行末店一軒出せさうな見込はない。いつそ今の中一か八かで、
停戰になつて歸つて來ると、東京は見渡すかぎり、どこもかしこも燒原で、もみぢの店のおかみさんや料理番の行衞も其時にはさがしたいにも搜しやうがなかつた。
一二ヶ月たつか、たゝない中、新太郎は金には不自由しない身になつた。いくら使ひ放題つかつても、ポケツトにはいつも千圓内外の
夜は仲間のもの五六人と田圃の中に建てた小屋に寐る。時たま仕事の暇を見て、船橋在の
新太郎は金に
やがて田舍の者だけでは滿足してゐられなくなつた。新太郎は以前もみぢの料理場で手つだひをさせながら、けんつくを
板前の家はもと下谷の入谷であつたので、その方面へ行つた時わざ/\區役所へ立寄つて立退先をきいて見たが能くわからなかつた。もみぢのおかみさんは
或日のこと。東京の中野から小田原へ轉宅する人の荷物を積み載せて、東海道を走つて行く途中、藤澤あたりの道端で一休みしたついでに松の木蔭で辨當を食つてゐた時、垢拔けのした奧樣らしい人がポペラニヤ種の小犬をつれて歩いて來るのを見た。犬にもチヤンと見覺えがあるが、然しその名は奧樣の名と共に思出せさうで出せない。新太郎は辨當箱を片手に立上りながら、「もし、もみぢのお客樣。」と呼びかけ、「わたしです。この邊にいらつしやるんですか。」
「あら。」と云つたまゝ奧樣も新太郎の名を忘れてゐたと見え、一寸言葉を
「この春かへりました。もみぢのおかみさんはどうしましたらう。尋ねて上げたいと思つて町會できいて見たんですがわからないんです。」
「もみぢさんは燒けない中に強制疎開で取拂ひになつたんだよ。」
「ぢや、御無事ですね。」
「暫くたよりがないけれど、今でも疎開先に御いでだらうよ。」
「どちらへ疎開なすつたんです。」
「千葉縣八幡。番地は家に書いたものがある筈だよ。お前さんの處をかいておくれよ。家へ歸つたら葉書で知らして上げやう。」
「八幡ですか。そんなら譯はありません。わたしは小岩の運送屋に働いてゐますから。」
新太郎は卷煙草の紙箱をちぎつて居處をかいて渡した。奧樣はそれを讀みながら、
「新ちやんだつたね。すつかり商賣替だね。景氣はいゝの。」
「とても
新太郎は助手と共に身輕く車に飛び乘つた。
* * *
* * *
その日の仕事が暗くならない中に濟んだ日を待ち、新太郎は所番地をたよりにもみぢの疎開先を尋ねに行つた。
省線の驛から國道へ出る角の巡査派出所できくと、鳥居前を京成電車が通つてゐる八幡神社の松林を拔けて、溝川に沿うた道を四五町行つたあたりだと教へられた。然し行く道は平家の住宅、別莊らしい門構、茅葺の農家、畠と松林のあひだを勝手次第に曲るたび/\又も同じやうな
「それはすぐそこの家だよ。」
別の子供が、「そこに松の木が立つてるだらう。その家だよ。」
「さうか。ありがたう。」
新太郎は教へられた潜門の家を見て、あの家なら氣がつかずに初め一度通り過ぎたやうな氣もした。
兩側ともに
新太郎は家の軒下を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて勝手口から聲をかけやうとすると、女中らしい洋裝の女が硝子戸の外へ焜爐を持出して鍋をかけてゐる。見れば銀座の店で御燗番をしてゐたお近といふ女であつた。
「お近さん。」
「あら。新ちやん。生きてゐたの。」
「この通り。足は二本ちやんとありますよ。新太郎が來たつて、おかみさんにさう言つて下さい。」
聲をきゝつけてお近の
「御機嫌よう。赤坂の
「さうかい。よく來ておくれだ。旦那もいらつしやるよ。」と奧の方へ向いて、「あなた。新太郎が來ましたよ。」
「さうか。庭の方へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて貰へ。」と云ふ聲がする。
女中が新太郎を庭先へ案内すると、秋草の咲き亂れた縁先に五十あまりのでつぷりした赤ら顏の旦那が腰をかけてゐた。
「よくわかつたな。この邊は番地がとび/\だから、きいてもわかる處ぢやないよ。まアお上り。」
「はい。」と新太郎は縁側に腰をかけ、「この春、歸つて來たんですが、どこを御尋ねしていゝのか
「今どこに居る。」
「小岩に居ります。トラツクの仕事をしてゐます。
「それア何よりだね。丁度いゝ時分だ。夕飯でも
「上田さんはどうしましたらう。」と新太郎は靴をぬぎながら、料理番上田のことをきく。
「上田は家が岐阜だから、
「はい。唯今。」
新太郎は土産にするつもりで、ポケツトに亞米利加の卷烟草を二箱ばかり入れて來たのであるが、旦那は袂から同じやうな紙袋を出し一本を拔取ると共に、袋のまゝに新太郎に勸めるので、新太郎は土産物を出しおくれて、手をポケツトに突込んだまゝ、
「もうどうぞ。」
「配給の煙草ばかりは呑めないな。くらべ物にならない。戰爭に負けるのは煙草を見てもわかるよ。」
おかみさんが茶ぶ臺を座敷へ持ち出し、
「新ちやん。さアもつと
茶ぶ臺には胡瓜もみとえぶし鮭、コツプが二ツ、おかみさんはビールの罎を取上げ、
「井戸の水だから
「まア、旦那から。」と新太郎は主人が一口飮むのを待つてからコツプを取上げた。
ビールは二本しかないさうで、後は日本酒になつたが新太郎は二三杯しか飮まなかつた。問はれるまゝに、休戰後滿洲から歸つて來るまでの話をしてゐる中、女中が
飮食物の闇相場の話やら、第二封鎖の話やら、何やら彼やら、世間の
「突然伺ひまして。御馳走さまでした。」
「また話においで。」
「おかみさん。いろ/\ありがたう御在ました。何か御用がありましたら、どうぞ
新太郎は幾度も頭を下げて
ポケツトに出し忘れた土産物の卷烟草があつたのに手が
國道へ出たので、あたりを見ると、來た時見覺えた藥屋の看板が目についた。新太郎は急に一杯飮み直したくなつて、八幡の驛前に、まだ店をたゝまずにゐる露店を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。然し酒を賣る店は一軒もない。喫茶店のやうな店構の家に、明い
「林檎の一番いゝやつを貰はうや。それから羊羹は甘いか。うむ。甘ければ二三本包んでくれ。近處の子供にやるからな。」
[#地から1字上げ](昭和廿一年十一月草)
底本:「葛飾こよみ」毎日新聞社
1956(昭和31)年8月25日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年3月9日修正
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