小川未明
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
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[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。
北方の海の色は、青うございました。ある時、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。
雲間から
なんという淋しい景色だろうと人魚は思いました。自分達は、人間とあまり姿は変っていない。魚や、また底深い海の中に棲んでいる気の荒い、いろいろな
長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面を憧がれて暮らして来たことを思いますと、人魚はたまらなかったのであります。そして、月の明るく照す晩に、海の面に浮んで岩の上に休んでいろいろな空想に
「人間の住んでいる町は、美しいということだ。人間は、魚よりもまた
その人魚は女でありました。そして
子供から別れて、独りさびしく海の中に暮らすということは、この上もない悲しいことだけれど、子供が
人間は、この世界の
人魚は、そう思ったのでありました。
せめて、自分の子供だけは、賑やかな、明るい、美しい町で育てて大きくしたいという情から、女の人魚は、子供を
遥か、
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
海岸に小さな町がありました。町にはいろいろな店がありましたが、お宮のある山の下に小さな
その家には年よりの夫婦が住んでいました。お爺さんが蝋燭を造って、お婆さんが店で売っていたのであります。この町の人や、また附近の漁師がお宮へお
山の上には、松の木が生えていました。その中にお宮がありました。海の方から吹いて来る風が、松の梢に当って、昼も夜もごうごうと鳴っています。そして、毎晩のように、そのお宮にあがった蝋燭の火影がちらちらと
ある夜のことでありました。お婆さんはお爺さんに向って、
「私達がこうして、暮らしているのもみんな神様のお
「ほんとうに、お前の言うとおりだ。私も毎日、神様を有がたいと心でお礼を申さない日はないが、つい用事にかまけて、たびたびお山へお詣りに行きもしない。いいところへ気が付きなされた。私の分もよくお礼を申して来ておくれ」と、お爺さんは答えました。
お婆さんは、とぼとぼと家を出かけました。月のいい晩で、昼間のように外は明るかったのであります。お宮へおまいりをして、お婆さんは山を降りて来ますと、石段の下に赤ん坊が泣いていました。
「可哀そうに
「おお可哀そうに、可哀そうに」と、言って、
お爺さんは、お婆さんの帰るのを待っていますと、お婆さんが赤ん坊を抱いて帰って来ました。そして一部始終をお婆さんはお爺さんに
「それは、まさしく神様のお授け子だから、大事にして育てなければ罰が当る」と、お爺さんも申しました。
二人は、その赤ん坊を育てることにしました。その子は女の児であったのであります。そして胴から下の方は、人間の姿でなく、魚の形をしていましたので、お爺さんも、お婆さんも、話に聞いている人魚にちがいないと思いました。
「これは、人間の子じゃあないが……」と、お爺さんは、赤ん坊を見て頭を傾けました。
「私もそう思います。しかし人間の子でなくても、なんというやさしい、可愛らしい顔の女の子でありましょう」と、お婆さんは言いました。
「いいとも
その日から、二人は、その女の子を大事に育てました。子供は、大きくなるにつれて
[#10字下げ]三[#「三」は中見出し]
娘は、大きくなりましたけれど、姿が変っているので恥かしがって顔を出しませんでした。けれど一目その娘を見た人は、みんなびっくりするような美しい器量でありましたから、中にはどうかしてその娘を見ようと思って、蝋燭を買いに来た者もありました。
お爺さんや、お婆さんは、
「うちの娘は、内気で恥かしがりやだから、人様の前には出ないのです」と、言っていました。
奥の間でお爺さんは、せっせと蝋燭を造っていました。娘は、自分の思い付きで、きっと絵を
娘は、赤い絵具で、白い蝋燭に、魚や、貝や、また
「うまい筈だ、人間ではない人魚が描いたのだもの」と、お爺さんは感嘆して、お婆さんと話合いました。
「絵を描いた蝋燭をおくれ」と、言って、朝から、晩まで子供や、大人がこの
するとここに不思議な話がありました。この絵を描いた蝋燭を山の上のお宮にあげてその燃えさしを身に付けて、海に出ると、どんな
「海の神様を祭ったお宮様だもの、綺麗な蝋燭をあげれば、神様もお喜びなさるのにきまっている」と、その町の人々は言いました。
蝋燭屋では、絵を描いた蝋燭が売れるのでお爺さんは、一生懸命に朝から晩まで蝋燭を造りますと、
「こんな人間並でない自分をも、よく育て可愛がって下すったご恩を忘れてはならない」と、娘はやさしい心に感じて、大きな黒い瞳をうるませたこともあります。
この話は遠くの村まで響きました。遠方の船乗りやまた、漁師は、神様にあがった絵を描いた蝋燭の燃えさしを手に入れたいものだというので、わざわざ遠い処をやって来ました。そして、蝋燭を買って、山に登り、お宮に参詣して、蝋燭に火をつけて捧げ、その燃えて短くなるのを待って、またそれを
「ほんとうに有りがたい神様だ」と、いう評判は世間に立ちました。それで、急にこの山が名高くなりました。
神様の評判はこのように高くなりましたけれど、誰も、蝋燭に一心を籠めて絵を描いている娘のことを思う者はなかったのです。従ってその娘を可哀そうに思った人はなかったのであります。
娘は、疲れて、折々は月のいい夜に、窓から頭を出して、遠い、北の青い青い海を恋しがって涙ぐんで眺めていることもありました。
[#10字下げ]四[#「四」は中見出し]
ある時、南の方の国から、
香具師は、何処から聞き込んで来ましたか、または、いつ娘の姿を見て、ほんとうの人間ではない、実に世にも珍らしい人魚であることを見抜きましたか、ある日のことこっそりと年より夫婦の処へやって来て、娘には分らないように、大金を出すから、その人魚を売ってはくれないかと申したのであります。
年より夫婦は、最初のうちは、この娘は、神様のお授けだから、どうして売ることが出来よう。そんなことをしたら罰が当ると言って承知をしませんでした。香具師は一度、二度断られてもこりずに、またやって来ました。そして年より夫婦に向って、
「昔から人魚は、不吉なものとしてある。今のうちに
年より夫婦は、ついに香具師の言うことを信じてしまいました。それに大金になりますので、つい金に心を奪われて、娘を香具師に売ることに約束をきめてしまったのであります。
香具師は、大そう喜んで帰りました。いずれそのうちに、娘を受取りに来ると言いました。
この話を娘が知った時どんなに驚いたでありましょう。内気な、やさしい娘は、この家を離れて幾百里も遠い知らない熱い南の国に行くことを怖れました。そして、泣いて、年より夫婦に願ったのであります。
「
しかし、もはや、鬼のような
娘は、
月の明るい晩のことであります。娘は、独り波の音を聞きながら、身の
娘は、また、坐って、蝋燭に絵を描いていました。するとこの時、表の方が騒がしかったのです。いつかの香具師が、いよいよその夜娘を連れに来たのです。大きな鉄格子のはまった四角な箱を車に乗せて来ました。その箱の中には、
このやさしい人魚も、やはり海の中の獣物だというので、虎や、獅子と同じように取扱おうとするのであります。もし、この箱を娘が見たら、どんなに
娘は、それとも知らずに、下を向いて絵を描いていました。
「さあ、お前は行くのだ」と、言って連れ出そうとしました。
娘は、手に持っている蝋燭に、せき立てられるので絵を描くことが出来ずに、それをみんな赤く塗ってしまいました。
娘は、赤い蝋燭を自分の悲しい思い出の
[#10字下げ]五[#「五」は中見出し]
ほんとうに穏かな晩でありました。お爺さんとお婆さんは、戸を閉めて寝てしまいました。
真夜中頃であります。とん、とん、と誰か戸を叩く者がありました。年よりのものですから耳|
「どなた?」と、お婆さんは言いました。
けれどもそれには答えがなく、つづけて、とん、とん、と戸を叩きました。
お婆さんは起きて来て、戸を細目にあけて外を覗きました。すると、一人の色の白い女が戸口に立っていました。
女は蝋燭を買いに来たのです。お婆さんは、少しでもお金が儲かるなら、決していやな
お婆さんは、蝋燭の箱を出して女に見せました。その時、お婆さんはびっくりしました。女の長い黒い
お婆さんは、
その夜のことであります。急に空の模様が変って、近頃にない大暴風雨となりました。ちょうど香具師が、娘を檻の中に入れて、船に乗せて南の方の国へ行く途中で沖合にあった頃であります。
「この大暴風雨では、とてもあの船は助かるまい」と、お爺さんと、お婆さんは、ふるふると震えながら話をしていました。
夜が明けると沖は真暗で物凄い景色でありました。その夜、難船をした船は、数えきれない程でありました。
不思議なことに、赤い蝋燭が、山のお宮に
しかし、何処からともなく、誰が、お宮に上げるものか、毎晩、赤い蝋燭が点りました。昔は、このお宮にあがった絵の描いた蝋燭の燃えさしを持ってさえいれば、決して海の上では災難に
忽ち、この噂が世間に伝わると、もはや誰も、山の上のお宮に参詣する者がなくなりました。こうして、昔、あらたかであった神様は、今は、町の鬼門となってしまいました。そして、こんなお宮が、この町になければいいのにと
船乗りは、沖から、お宮のある山を眺めて怖れました。夜になると、北の海の上は
真暗な、星も見えない、雨の降る晩に、波の上から、蝋燭の光りが、漂って、だんだん高く登って、山の上のお宮をさして、ちらちらと動いて行くのを見た者があります。
幾年も経たずして、その下の町は
底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日第1刷発行
2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「日本児童文学体系5」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月
初出:「東京朝日新聞」
1921(大正10)年2月16日〜20日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年12月31日作成
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