能の彫刻美
高村光太郎
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(例)屡※[#二の字点、1-2-22]
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能はいはゆる綜合芸術の一つであるから、あらゆる芸術の分子がその舞台の上で融合し展開せられる。その融合の微妙さとその展開の為方の緊密にしてしかも回転自在な構成の美しさとに観る者は打たれる。しかし私のやうな彫刻家が能を観るたびにとりわけ感ずるのはその彫刻美である。他の舞台芸術に絶えてないほど能には彫刻的分子が多い。能は彫刻の延長であるもののやうな気さへしてくる。
普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。唐招提寺の鑑真和上の坐像のやうな凝然とした静坐の像に対して此をじつと見てゐると、まるで呼吸してゐるやうな微かな動きを感ずる。これは観る者の呼吸の動きである。元来動かない筈の彫刻といふ物体に動きを感ずるところに彫刻の持つ神秘感の物理的根拠がある。深夜孤坐して一つの彫刻に見入る時の一種の物凄さは経験した人の既に知るところであらう。彫刻の写真がその実物の魅力の大半を失ふのは、写真が唯一つの輪郭に彫刻を固定してしまふところに理由がある。どんなにまろく浮き出してゐる写真でも、写真にはさういふ動きがない。彫刻の四面性といふ特質が殺されてしまふのである。
かういふ彫刻の神秘的な動きがもう少し能動的に動いてくるのが能の動作であるやうな気がする。能では、どうすれば人がいちばん動かないで動き得るかを究めてゐるやうである。揚幕から出て橋がかりを一ノ松まで来る間、腰をおとして一足一足すり足でむらなく進むが、身体そのものは全く動揺しない。木で作つた彫刻が自然と前方に進んで来るやうである。面をかけた首の動きは観る者に非常に強く響くので、首は正しい位置を守つて微動もしない。立ちどまつて体をまはし、腕をひらくやうな時にも、決して中間の無駄な動作を交へない。最後の形に到る最も当然な動きを、丁度輪郭がおのづとほぐれていくやうに運ぶ。輪郭を乱さない。シテ柱に立つたまま謡へば二三年はたちまち経過する。斜め横に身体を向きかへるといふやうなわづかな動作はそれ故非常に烈しい変化を感じさせる。シテがワキに向つて迫るやうな時、つッつッつッつッと早足に進んでぴたりと止まる。進む時には進むといふ純粋な動きに一切が要約せられて、ここにも造型上の雑入がない。生きた人間の動作といふものはもともと甚だ強い感銘を与へるので、われわれの日常生活の動作は、その強さを和げるためにいつでも中途半端な動きをしてゐるのである。いはば動きの意味を稀薄にして融通のきくやうにしてゐるとも言へる。いろいろの分子を紛れこましてあいまいなうちに事を運んでゐるやうなものである。能ではさういふことがない。動きは純粋で、決定的で、最後的である。それ故微細の動きも甚だ強い。その動きはたとへば人間の動作の無水原質のやうなもので、われわれ日常の動きはいつでもそれに水を割つてゐる。その無水原質が更に凝圧されて、じつと静かに不動の形となる時、それは実に激甚な内面の動きとなる。曾て或人の「山姥」を脇から観たことがあるが、その老女が何といふのか甚だ地味で質素な青味がかつた色合の扮装で正面にうづくまるやうにこごみ加減に下に居て長い間じつとしてゐる姿には、その内面の激情が妖気を帯びて物凄いばかりに感じられた。これは殆ど一つの彫刻が置いてあるのと同じであり、彫刻と違ふところは、物そのものが呼吸をし、音声を出している点に過ぎない。面にこもつて出てくるあの一種の音声がしづかに物寂びて、四辺の空気に深い山林の精気をただよはす。その中にじつとしてゐる此の造型物はきりりとしまつて、よくこなされてゐて、些少の駄肉もない。これは彫刻の持つ神秘感をそのまま舞台に見る一例であるが、能に於ける動きのあらゆる場合がこの性質を持つてゐること言をまたない。「道成寺」の乱拍子のやうなところは素より、随分はげしい所作の時でも、その造型性は厳然と保たれる。「藤戸」の怨霊が杖をはげしく振つて自分の脇のあたりに突きさすやうな動きをするが、さういふ時身体全体は依然として朦朧と立つてゐる。立つてゐる形は崩れない。一つの形から一つの形への推移が純粋なのであらゆる瞬間が彫刻である。彫刻に於ける「形」といふのは必ず主要な形態に一切を統一して、その動勢の意味を公理ある型にまで上昇せしめたものである。決して中途半端な、あいまいな、四散するやうな二次三次的な形態はとらないのである。さういふ点で能の動作の各瞬間が彫刻的一齣であるといへる。それ故、面をかけた首に個人的な曲り癖が見えたり、上体のぐらつきが見えたり、ほんの心持だけでも故なく旁視したりする気はひが見えたりすると甚だをかしいといふことである。さうであらうと想像される。それほど厳重な造型であるだけに、逆に、天冠の纓絡などがきらきらと細かく揺れ動いてゐるやうな時、その美しさ、きらびやかさはまさに天上のものとなり、又怨霊などの黒頭の毛がふわふわと自然にゆれ動くのが何ともいへず気味わるく、凄く目にうつる。自然に動いてゐるものの方が、能では一種別様な世界のものに見えてくる。
その上、能の装束そのものが既に彫刻的の性質を帯びてゐる。すべて大きく、輪郭がきつぱりしてゐて、甚だしく嵩のあるところと、細くひき緊つたところとが必ずあつて、抑揚がつき、どんな姿勢をしても全体から輪郭の突飛な逸脱を起さない。或る図形のうちに統一されて動いてゐる。これは幅びろな装束類や着附のおのづから構成する彫刻的な綜合性である。さういふシテが置物のやうなワキと調和ある位置を終始保つて去来するありさまを見て、われわれがそれを彫刻の延長のやうに感ずるのは無理がないであらう。
面の問題になると、これはもとより彫刻そのものの問題である。舞台で見ると、仮面の方が真実の面で、直面の方が一時的の面のやうに見える。仮面の方に永遠な芸術力があつて、人間の生の顔の方には唯何某といふ人の、芸術の素材に過ぎない個人的人面があるばかりであるからである。能舞台全体の造型的な空気の中にあつては瞬きをしない、抑揚の強い能面こそ正常の表現を持つものであり、電車の中ででも見られる生きものの人面は甚だしく貧弱な、些細な、仮性の表現を持つものとならざるを得ない。芸術の威力をこれ程はつきり見せられることも珍しい。能面は人面の彫刻的要約である。従つてそこには彫刻的省略と誇張とがある。しかもそれは概ね平時の人面を表徴するよりも、或る劇的情緒の表現に堪へ得る種類の人面を表徴する役目を持つ。それが或る特定の情緒のみに局限せられず、或る性格のもののあらゆる場合に於ける表現に堪へ得なければならず、勢ひ能面そのものの絶対表現は或る定まつた性格の中核的内面世界の核心を表徴するものとなる。いはば八方睨みの竜の眼のやうに、その性格としての中正の一点を捉へねばならないのである。さういふ難事を能面作者は彫刻的に成就してゐる。喜んだ同じ面が悲しみもする。怒つた同じ面が息をきつて自卑の念にも悶える。「痩男」は「痩男」としてのあらゆる表現の芽を含み、「般若」は「般若」としてのあらゆる表現の陰影を内包してゐる。見張りきりの眼、開いたきりの口が却つてその性格の持つ宿業の深さを暗示する。「藤戸」の怨霊の面は舞台の上で長く正視するに堪へない程物すごく人に迫る。「船弁慶」の亡霊の面には正法にはとても敵し難い弱さを内心に蔵して、しかもなほあやかしの持つ強烈な霊の力を頼みとする者の哀れさがある。弱くして強く、烈しくして脆いこの表現の妙は悉くその性格の中正を捉へた彫刻的契機から発する。決して日常表面の特殊変化に偏つた表現では得られない効果である。能面のこなし[#「こなし」に傍点]はすべて上下の二つの面に分たれて、見上げれば忽ち晴れ、うつむけば忽ち曇るやうに出来て居り、総じて無駄の肉づけを避け、こなしだけで骨格を表はし、これに皮膚の様相を加へる。こなしに省略を行ふのでおのづから同時に誇張が行はれる。面上の部分がすべて大きく、「小面」のやうな美女の面でさへその鼻翼は実際よりも大である。これは遠望を約束された舞台上の効果から来る必然の技法でもあり、又往時の舞台照明の関係からも来てゐる。それ故現在の能舞台の明るすぎる電灯の下では聊か作者の企図したところと相違するものとなる。此点について其の道の人達が如何に考へてゐるのか不審に堪へないと思ふことがしばしばある。「羽衣」の天女が強い裸電球の並列の下で、額の下に眼を凹ませて立つてゐるのは甚だ美でない。又その錦繍の装束があまり輝き過ぎて縹渺の気韻を殺してゐる。能面の彫刻美について殊に興味のあるのは、それが賢聖や偉人の面に限られず、むしろ多くは煩悩に満ちた俗界の平凡人の面であり、しかもそれを美の領域にまで高めるほど深い彫刻的究明を行つてゐる点である。
これほど彫刻的である能の姿は、そのためか屡※[#二の字点、1-2-22]彫刻家によつて彫刻せられる。しかし能の彫刻像にろくなものはない。能が既に彫刻である以上、それを更に彫刻に刻む時、製作の余地がなく、その彫刻は人形の意味しか持たないやうになる。再芸術は低くしか成立しない事を立証する一例と見る外はない。
底本:「日本の名随筆87 能」作品社
1990(平成2)年1月25日第1刷発行
1999(平成11)年2月25日第8刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第五巻」筑摩書房
1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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