高村光太郎『(私はさきごろ)』

(私はさきごろ)
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)聯想れんそう
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 私はさきごろミケランジェロの事を調べたり、書いたりして数旬を過ごしたが、まったくその中に没頭していたため、この岩手の山の中にいながらまるで日本に居るような気がせず、朝夕を夢うつつの境に送り、何だか眼の前の見なれた風景さえ不思議な倒錯を起して、小屋つづきの疎林はパリのフォンテンブロオの森かと思われ、坂の上の雪と風とに押しひしがれてそいだような形になっている松の木はあのローマの傘松を聯想れんそうさせ、見渡すかぎりの清水野のゆるい起伏はローマ郊外のいわゆるカムパーニヤ ロマーノの展望にさえ見えるのであった。炉辺で眼をつぶると、何だかアルノオ河の河岸の石だたみや、ポンテ ヴェッキオの橋が近所にあるように思われたり、遠くの空にローマのサン ピエトロの円屋根がそびえていたりする。今は一九五〇年の冬のはじめで、ここは日本東北地方の山の中だという現実がうそのように思えたりした。
 そういう心的状態の中で私はまっすぐにミケランジェロを凝視した。この稀有けうな人間の正体がどんなものであるかを見きわめようとした。私の脳裏のミケランジェロはその行蔵の表裏矛盾にみちしかも底の底ではただ一本道を驀進ばくしんするタンクのような人間であった。一体彼がとって動かぬ根本のささえとなったものは何であろう。時代の常識から考えればむろんそれは神であり、クリストであり、マリアであったといわねばならず、彼も亦神をかき、クリストを画き、マリアを画き、且つ石で彫り、神に祈る多くの詩を書いた。心のきしめく時必ず神をよんだ。だが、彼の神とは何であろう。どう考えてもそれはヴァチカン宮の中に居ない神のようである。彼自身が画にかき、彫刻に彫った神やクリストやマリアのようなものではなかったようだ。彼は十三四の頃から聖書によみふけり、又ダンテの「神曲」に魂を奪われていたのであるから、それらのものが彼の内に形づくった素朴な映像が次第に増大して、後年の多くの製作となったには違いないが、その映像も最初はやはり先人の遺した多くの伝統的映像に養われたものであろうし、結局それは一つの仮設の世界のものであり、伝説的存立としての仮象であるから、彼の自らつくる神なりクリストなりマリアなりが、彼の内なる生きた神なりクリストなりマリアなりと同じであったとはうけ取れない。彼が一生涯に作った多くのそれらの絵画彫刻は、彼にとってまことに絵画であり彫刻であったに過ぎず、神やクリストやマリアはその絵画彫刻の伝説的主題として純粋な芸術的意味の外に意味は持たなかったに違いない。彼の内なる神とはただ犯し難い自然の理法の事であり、クリストとは人間の中の人間の事であり、マリアとは母の中なる母の事であったというより外はない。彼はクリスト教オルソドックスのまっただ中に生き、至上者法王と常に顔を合せながら、彼はまったくその外側に息づいていた。彼はそれらのもののドグマをそのままには受取らず、時代の常識としての宗教に仕えるかわりにもっと別の次元に身を置いていた。美こそ彼をささえていた唯一のものであり、彼にとって一切は美の次元から照射されてはじめて腑甲斐ふがいあるものとなった。美は宗教から出る放射物であり得ず、かかる宗教とは次元を異にする別個の力であり、いわゆる宗教上のもろもろの伝説は、ただ伝説として美の世界に役立つものでしかなかった。彼は法王庁カペラ シスチナの天井に旧訳聖書を画き、正面壁画に最後の審判を画きながら、ただひたすら人間造型の美を究めようとした。自然の理法が示す比例均衡の美を人間の手に変圧して捉えようとした。美に仕えることが彼の内なる神に仕えることであった。ヴァチカン宮の宗教は殆と彼と無縁であったように見える。



底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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